2015年 11月 09日
いわき総合高校の卒業生たちが演じた、飴屋法水「ブルーシート」を見た。2年前にいわき総合高校の授業の一環として発表された作品の再演だ。
俳優ではない(元)高校生の彼らが自分自身として登場し、自分自身の体験や考えを語る。いわき総合の発表は「ブルーシート」以外にも何本か観たのだが、こういった作られ方がなされたであろう作品は以前にもあり、体験談を引き出すためのエクササイズが確立しているのか、その語り口についてもある種の共通点があるように思われ、それがいわき総合高校のお芝居のカラーとなっていると思う。だから今回も「またこれか」とどこかで思ってしまったものの、観るうちにいつの間にか彼らのことが好きになってしまっていたことは事実で、いわき総合の芝居を観ると毎回そんな気持ちにさせられることから、私はいわき総合が持つ、いい意味でのマンネリズムにハマっているのだと思う。
こういった、「俳優ではない出演者が自分自身として自分自身を演じる」というスタイルは斬新な演劇を生むし、地方で演劇をやるということはこういう事なのだろうと思う。また、この取り組みは演劇作品の創作というよりは、高校の授業としての演劇教育という趣旨で行われるものであるから、非常に理にかなっているとも思う。反面、前提として「俳優ではない」出演者が行う故の難しさがある。要するにそれは、単なる再演ができないとか、出演者を取り替えることができないということで、今回の再演においても初演からの2年という歳月を取り込んだ創作が加えられていた。
その具体的なシーンのひとつに、芝居の最後に初演に出た女の子がテレビ画面で登場し、自分が現在妊娠中で、公演日あたりが予定日なので再演には出られないと告げるシーンがある。仮設住宅で「今回はムリ、ごめんね」みたいなことをいう彼女の存在が、2年という歳月の確かさを際だたせ、これがすなわち本作の再演の形であり、「あーこうするしかないわなぁ」と思いながらも、「あーこれは面白いなぁ」と思ったのであった。
舞台は、死体を見たという男の子の体験談から始まり、そこから生命や人生についてのテーマが語られ、最後は震災で家屋が倒壊し、そして放射能災害から逃げていった震災体験がダンスと共に繰り返され、終演する。これといった物語はない。
男の子が踊りながら喋る。
「壁が、落ちて。屋根が、落ちて。床が、落ちて。逃げて、逃げて・・・、」
逃げて逃げてと、執拗に繰り返されるダンスに重ねて、ほかの登場人物たちが現在の自分の居所を話すのだが、出産によりこの再演に加わることができなかった出演者の代役である在校生以外は、全員がいわきを離れ首都圏に暮らしている。
戯曲を読んだわけではないのでよく分からないが、2年前の初演時においては、語られた彼らの居所が仮設住宅や実家と離れた場所だったりして、そのシーンが震災のリアリティを浮かびあがらせる効果を上げたのかもしれない。
それが2年経って、今回「みんな首都圏に住んでいる」と彼らが語ることで、その進路がこの辺の若者なんかにはよくあるもので、極めて地方都市的であることから作品に寂しさのようなものを与えるとともに、セントエルモスファイアーみたいな甘酸っぱさも想起させる。それと同時にこの告白は、作品のモチーフである原発事故を巡る構造的な問題提議としての「地方」と「中央」という関係性をも浮かび上がらせ、これが作品に普遍性を与えたと感じた。
公演当日、雨が降っていたのも良かったのかもしれない。カッパを着て、それなりの雨に打たれながらの観劇体験は初めてだったが、降ったり止んだり強まったりする雨が、芝居のなかとは違う現実の時の流れを一層強く意識させた。
この作品は、できることなら5年とか10年おきに、同じメンバーで再演してもらえたらいいと思う。できることならその全てを追いかけたい。年を経る毎にメンバーが減っていき、ビデオ出演が増えるのだ。「60越したらやっぱり身体がね、今年の夏は暑かったからさぁ、なんだかこう、まず体調をね、アレしてから・・・。だから今回はムリ、ごめん」
というビデオメッセージを見る私はそうすると80だ。
むしろそっちがムリごめんだな。
俳優ではない(元)高校生の彼らが自分自身として登場し、自分自身の体験や考えを語る。いわき総合の発表は「ブルーシート」以外にも何本か観たのだが、こういった作られ方がなされたであろう作品は以前にもあり、体験談を引き出すためのエクササイズが確立しているのか、その語り口についてもある種の共通点があるように思われ、それがいわき総合高校のお芝居のカラーとなっていると思う。だから今回も「またこれか」とどこかで思ってしまったものの、観るうちにいつの間にか彼らのことが好きになってしまっていたことは事実で、いわき総合の芝居を観ると毎回そんな気持ちにさせられることから、私はいわき総合が持つ、いい意味でのマンネリズムにハマっているのだと思う。
こういった、「俳優ではない出演者が自分自身として自分自身を演じる」というスタイルは斬新な演劇を生むし、地方で演劇をやるということはこういう事なのだろうと思う。また、この取り組みは演劇作品の創作というよりは、高校の授業としての演劇教育という趣旨で行われるものであるから、非常に理にかなっているとも思う。反面、前提として「俳優ではない」出演者が行う故の難しさがある。要するにそれは、単なる再演ができないとか、出演者を取り替えることができないということで、今回の再演においても初演からの2年という歳月を取り込んだ創作が加えられていた。
その具体的なシーンのひとつに、芝居の最後に初演に出た女の子がテレビ画面で登場し、自分が現在妊娠中で、公演日あたりが予定日なので再演には出られないと告げるシーンがある。仮設住宅で「今回はムリ、ごめんね」みたいなことをいう彼女の存在が、2年という歳月の確かさを際だたせ、これがすなわち本作の再演の形であり、「あーこうするしかないわなぁ」と思いながらも、「あーこれは面白いなぁ」と思ったのであった。
舞台は、死体を見たという男の子の体験談から始まり、そこから生命や人生についてのテーマが語られ、最後は震災で家屋が倒壊し、そして放射能災害から逃げていった震災体験がダンスと共に繰り返され、終演する。これといった物語はない。
男の子が踊りながら喋る。
「壁が、落ちて。屋根が、落ちて。床が、落ちて。逃げて、逃げて・・・、」
逃げて逃げてと、執拗に繰り返されるダンスに重ねて、ほかの登場人物たちが現在の自分の居所を話すのだが、出産によりこの再演に加わることができなかった出演者の代役である在校生以外は、全員がいわきを離れ首都圏に暮らしている。
戯曲を読んだわけではないのでよく分からないが、2年前の初演時においては、語られた彼らの居所が仮設住宅や実家と離れた場所だったりして、そのシーンが震災のリアリティを浮かびあがらせる効果を上げたのかもしれない。
それが2年経って、今回「みんな首都圏に住んでいる」と彼らが語ることで、その進路がこの辺の若者なんかにはよくあるもので、極めて地方都市的であることから作品に寂しさのようなものを与えるとともに、セントエルモスファイアーみたいな甘酸っぱさも想起させる。それと同時にこの告白は、作品のモチーフである原発事故を巡る構造的な問題提議としての「地方」と「中央」という関係性をも浮かび上がらせ、これが作品に普遍性を与えたと感じた。
公演当日、雨が降っていたのも良かったのかもしれない。カッパを着て、それなりの雨に打たれながらの観劇体験は初めてだったが、降ったり止んだり強まったりする雨が、芝居のなかとは違う現実の時の流れを一層強く意識させた。
この作品は、できることなら5年とか10年おきに、同じメンバーで再演してもらえたらいいと思う。できることならその全てを追いかけたい。年を経る毎にメンバーが減っていき、ビデオ出演が増えるのだ。「60越したらやっぱり身体がね、今年の夏は暑かったからさぁ、なんだかこう、まず体調をね、アレしてから・・・。だから今回はムリ、ごめん」
というビデオメッセージを見る私はそうすると80だ。
むしろそっちがムリごめんだな。
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by O_pelican
| 2015-11-09 18:06
| 日記