2005年 10月 21日
演劇と、消費について3
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仙台の演劇ポータルサイト演劇仙台に佐々木久善さんの「アンアパシックズ・・・」福島公演レビューが掲載されました。チラシなどを見て、「トリキング? どうするかなぁ」とお思いの方はぜひご参考にしてください。(多少のネタバレがありますがほとんど鑑賞には影響ないと思われます)
※リンク先左側メニューの「観客席」からご覧になれます。
(昨日の続き)
その頂上人物を演じる役者が、その戦争反対のメッセージをいかに強く印象づけるかを問題として台詞へのアプローチを行ったとき、悲劇が生じるのではないか。例えばその台詞が「わたしは戦争には断固反対なのだ!」だとしよう。役者は考える。「戦争を反対しているのは他ならぬ『わたし』なのだから『わたし』という台詞を強調しよう」とか、「いやむしろ『戦争』を際だたせるためにそれを強く言おう」だとか、「いや『断固』という言葉がわざわざ挿入されているからには、これがこの台詞のポイントなのだろう」とか、「いや何より『反対』が重要なのだ」とかいろいろ、いろいろ考える。
そしてある結論に達して彼は本番を迎えるのだろう。「『わたし』は弱めに入って、少し間を取って『戦争には断固』を少し強めにし、その後一瞬感情を露呈したように正面を切って『反対なのだ!』を言おう」
・・・あーあ。前、向いちゃったよ。である。
「わたしは戦争には断固反対である!」という台詞を書いた作家も作家だが(もちろんこれは架空の作家ですよ)、前を向いて台詞を放った役者も役者(もちろんこれも架空の役者です)だ。全てが言葉に従属的な存在ではないか。人はそのようにして言葉を発するだろうか? また、人はそのようにして発せられた言葉に何かを感じるものなのだろうか? そもそも「演劇」という装置がそのようにして「言葉」を伝えるものなのだろうか?
わたしはよく稽古場で台詞を喋る役者に対し、「そこでなんか喋ったからといって、伝わったと思うのは大間違いだ」ということを言うのだけれど、それはきっと今述べた「言葉と身体の逆転現象」を感じているのだろう。
(・・・続く)
ちなみに・・・。トリキングの「アンアパシックズ・・・」では、役者は全編を通して正面を向いて台詞を言ってます。これは、ここで問題としている「役者が正面を向いて台詞を喋ることの意味」について、現時点のわたしが出した極めて前向きな試みです。
※リンク先左側メニューの「観客席」からご覧になれます。
(昨日の続き)
その頂上人物を演じる役者が、その戦争反対のメッセージをいかに強く印象づけるかを問題として台詞へのアプローチを行ったとき、悲劇が生じるのではないか。例えばその台詞が「わたしは戦争には断固反対なのだ!」だとしよう。役者は考える。「戦争を反対しているのは他ならぬ『わたし』なのだから『わたし』という台詞を強調しよう」とか、「いやむしろ『戦争』を際だたせるためにそれを強く言おう」だとか、「いや『断固』という言葉がわざわざ挿入されているからには、これがこの台詞のポイントなのだろう」とか、「いや何より『反対』が重要なのだ」とかいろいろ、いろいろ考える。
そしてある結論に達して彼は本番を迎えるのだろう。「『わたし』は弱めに入って、少し間を取って『戦争には断固』を少し強めにし、その後一瞬感情を露呈したように正面を切って『反対なのだ!』を言おう」
・・・あーあ。前、向いちゃったよ。である。
「わたしは戦争には断固反対である!」という台詞を書いた作家も作家だが(もちろんこれは架空の作家ですよ)、前を向いて台詞を放った役者も役者(もちろんこれも架空の役者です)だ。全てが言葉に従属的な存在ではないか。人はそのようにして言葉を発するだろうか? また、人はそのようにして発せられた言葉に何かを感じるものなのだろうか? そもそも「演劇」という装置がそのようにして「言葉」を伝えるものなのだろうか?
わたしはよく稽古場で台詞を喋る役者に対し、「そこでなんか喋ったからといって、伝わったと思うのは大間違いだ」ということを言うのだけれど、それはきっと今述べた「言葉と身体の逆転現象」を感じているのだろう。
(・・・続く)
ちなみに・・・。トリキングの「アンアパシックズ・・・」では、役者は全編を通して正面を向いて台詞を言ってます。これは、ここで問題としている「役者が正面を向いて台詞を喋ることの意味」について、現時点のわたしが出した極めて前向きな試みです。
by O_pelican
| 2005-10-21 12:50
| 創作ノート