2006年 04月 18日
4月17日(月)稽古
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南相馬に引っ越してから2度目の稽古。
2時間の稽古のために往復3時間車を走らせることは、はじめは辛いかと思ったがそれほどでもない(ような気がする)。まぁ、今までも遠くから来ていた役者がいたから、辛いなんて言ったらおこられますしね。
帰り道、iPodで落語を聞いていた。落語も演技も”間”が大切なのは言うまでもないのだが、その”間”という技術を使うタイミングが、とてもセンスのいることなのだと感じた。これは演技にも通じる。
今さらながらこんなことを思っていて恥ずかしいが、
”リアル”とは、本物に似せることではない。わたしは芸術が現実とどこかリンクしていないといけないという考え方を持っているが、それは何も語り口がホントっぽいとか、大仰な演技をしないとか、そういうことではないのだ。
”リアル”とは、彼が作る演劇の、現実に対するアプローチへのベクトルを定める手がかりなのだ。
「客席に尻を向けて演技する」「役者が同時に台詞を言う」「やたらと語順が倒置される」など、きわめてラディカルな方法により提示された平田オリザの”現代口語演劇”は、そのラディカルさ故にスタイルのみが一人歩きした。その結果、平田オリザの示したアプローチの革新性よりも、表層的な部分のみが踏襲され、多くの平田もどきを生み出す結果となってしまったのだ。
結局、演技は作為的なものだ。どこまでいっても演技は技術なのだ。
その技術をどう使うか? これが役者に求められるセンスだ。
あざとく見える演技はやっぱりダメだ。あざとく行っている演技についてあざとく見せないコツ。
それが技術であり、センスなのだろう。
泳げないのと、泳がないとが違うように、役者は技術を身に付けるべきなのだろう。
演出家は、日々刻々と変化する”リアル”へのアプローチについて、頭を働かせるべきなのだろう。
この両者の対決の証が作品として自立した時、それはわたしの作りたい芝居ができたときである。
2時間の稽古のために往復3時間車を走らせることは、はじめは辛いかと思ったがそれほどでもない(ような気がする)。まぁ、今までも遠くから来ていた役者がいたから、辛いなんて言ったらおこられますしね。
帰り道、iPodで落語を聞いていた。落語も演技も”間”が大切なのは言うまでもないのだが、その”間”という技術を使うタイミングが、とてもセンスのいることなのだと感じた。これは演技にも通じる。
今さらながらこんなことを思っていて恥ずかしいが、
”リアル”とは、本物に似せることではない。わたしは芸術が現実とどこかリンクしていないといけないという考え方を持っているが、それは何も語り口がホントっぽいとか、大仰な演技をしないとか、そういうことではないのだ。
”リアル”とは、彼が作る演劇の、現実に対するアプローチへのベクトルを定める手がかりなのだ。
「客席に尻を向けて演技する」「役者が同時に台詞を言う」「やたらと語順が倒置される」など、きわめてラディカルな方法により提示された平田オリザの”現代口語演劇”は、そのラディカルさ故にスタイルのみが一人歩きした。その結果、平田オリザの示したアプローチの革新性よりも、表層的な部分のみが踏襲され、多くの平田もどきを生み出す結果となってしまったのだ。
結局、演技は作為的なものだ。どこまでいっても演技は技術なのだ。
その技術をどう使うか? これが役者に求められるセンスだ。
あざとく見える演技はやっぱりダメだ。あざとく行っている演技についてあざとく見せないコツ。
それが技術であり、センスなのだろう。
泳げないのと、泳がないとが違うように、役者は技術を身に付けるべきなのだろう。
演出家は、日々刻々と変化する”リアル”へのアプローチについて、頭を働かせるべきなのだろう。
この両者の対決の証が作品として自立した時、それはわたしの作りたい芝居ができたときである。
by O_pelican
| 2006-04-18 00:32
| 創作ノート