2007年 09月 20日
9月20日(木)雑記
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先週末はいわきでリーディングのWSがあり、そこで両手でも抱えられないほどの劇的モチベーションを頂いたのだけれど、そのことについては後日改めて。
演劇はなんといっても「空間」と「時間」を構築できる点で、他の表現ジャンルとの一線を画している。
小説家に、読者の読む速度が構築できるか。もちろん、句読点の配置や筆致で、小説家が速度を構築している事は分かる。しかし読者がものすごく早く読める者だったらもうダメだ、なぜなら彼はものすごく早く読むからだ。もしくは読者が全然漢字を知らない者だったらダメだ、なぜなら彼は読めないからだ。
映画は、疑似体験という形でスクリーンの中に空間を構築できるが、それにも限界はある。映画はカットで自由に空間を移動できるかわりに、いつだってフレームの外側については構築できない。劇場にだって壁はあるが、演劇はたとえば、闇という無限の空間を舞台上に作ることができる。
演劇は「空間」と「時間」を構築できる。だから演劇が映画や小説より、という話ではない。ただ、演劇が”できる”というだけだ。逆に言うと、わたしの中ではこれができるから”演劇”なのであって、作り手が「空間」や「時間」に興味を持って作っているかどうかが観る際のひとつの指針となっている。たまに、そういうことに全く興味が無く、がさつに散らばった役者ががさつなタイミングでがさつな台詞をしゃべる演劇に出くわすが、わたしの中ではそれは演劇ではない。余興か遊戯だ。余興や遊戯をやるなとは言わないが、演劇と銘打ってやられると、少し、腹が立つのである。
確かにこれはわたしの考えで、そういう考えではないのだという人もいるだろう事は分かる。しかし何だろうか、演劇を初めてからずっと「演劇とは何か」という問いと、わたしなりに、がむしゃらに戦ってきた者として、「この人達、こういうこと考えたことないのだろうな」ということは何となく分かる。
演劇には残念ながら明確な定義はない、のだと思う。だから多くの演劇人が「演劇とは何か」ということを考え、自分なりの答えを出し、具現化して、作品を作ってきた。演劇ができることを、演劇でしかできないことを。
・・・続く、かも知れません。
↓昨日見た猫
演劇はなんといっても「空間」と「時間」を構築できる点で、他の表現ジャンルとの一線を画している。
小説家に、読者の読む速度が構築できるか。もちろん、句読点の配置や筆致で、小説家が速度を構築している事は分かる。しかし読者がものすごく早く読める者だったらもうダメだ、なぜなら彼はものすごく早く読むからだ。もしくは読者が全然漢字を知らない者だったらダメだ、なぜなら彼は読めないからだ。
映画は、疑似体験という形でスクリーンの中に空間を構築できるが、それにも限界はある。映画はカットで自由に空間を移動できるかわりに、いつだってフレームの外側については構築できない。劇場にだって壁はあるが、演劇はたとえば、闇という無限の空間を舞台上に作ることができる。
演劇は「空間」と「時間」を構築できる。だから演劇が映画や小説より、という話ではない。ただ、演劇が”できる”というだけだ。逆に言うと、わたしの中ではこれができるから”演劇”なのであって、作り手が「空間」や「時間」に興味を持って作っているかどうかが観る際のひとつの指針となっている。たまに、そういうことに全く興味が無く、がさつに散らばった役者ががさつなタイミングでがさつな台詞をしゃべる演劇に出くわすが、わたしの中ではそれは演劇ではない。余興か遊戯だ。余興や遊戯をやるなとは言わないが、演劇と銘打ってやられると、少し、腹が立つのである。
確かにこれはわたしの考えで、そういう考えではないのだという人もいるだろう事は分かる。しかし何だろうか、演劇を初めてからずっと「演劇とは何か」という問いと、わたしなりに、がむしゃらに戦ってきた者として、「この人達、こういうこと考えたことないのだろうな」ということは何となく分かる。
演劇には残念ながら明確な定義はない、のだと思う。だから多くの演劇人が「演劇とは何か」ということを考え、自分なりの答えを出し、具現化して、作品を作ってきた。演劇ができることを、演劇でしかできないことを。
・・・続く、かも知れません。
↓昨日見た猫
by O_pelican
| 2007-09-20 12:46
| 創作ノート